佐々木禎子


佐々木禎子

佐々木禎子(ささきさだこ 1943年1月7日生)
 [原爆の被爆者]


 広島県生まれ。1945年8月6日、2歳のときに広島市に投下された原子爆弾によって、爆心地から1.7kmの自宅で被爆した。黒い雨にも打たれた。同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。1954年8月の検査では異常はなかった。また小学6年生の秋の運動会ではチームを1位に導きその日付は1954年10月25日と記録されており、偶然にも自身の命日となるちょうど1年前であった。しかし、11月頃より首のまわりにシコリができはじめ、1955年1月にシコリがおたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。病院で調べるが原因が解からぬまま1月18日、2月16日にABCC(原爆傷害調査委員会)で検査を受ける。2月18日かかりつけの小児科医からABCCの検査結果をもとに父親に 「病名は亜急性リンパ腺白血病で禎子さんはあと3ヶ月、長くても1年はもたんでしょう」と告げられる。2月21日、広島赤十字病院に入院する。

 8月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じてツルを折りつづけた。8月の下旬に折った鶴は1000羽を超える。しかし、病気が回復することはなく10月25日、朝、危篤となる。父親から食べたい物は何かと尋ねられた禎子は「お茶漬けを食べたい」と伝えた。家族が大急ぎで用意したお茶漬けをたくあんと共にふた口ほど食べ、「お父ちゃん、お母ちゃん、みんなありがとう。」と呟いた。これが最期の言葉となる。10月25日午前9時57分、亜急性リンパ性白血病で死亡。死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に2、3羽ずつ参列者に配られ、棺に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。

 1955年11月8日に、新聞で禎子の死を知った男の子から「禎子さんを始め、原爆で死んだ子の霊を慰める石碑を創ろう」と、禎子の同級生に提案があり、その設置に関する活動が始まった。11月12日に全日本中学校長会場で、『禎子の同級生8人によるビラ配り』が行われ、全国の中学校からも寄付金が寄せられた。12月に入ると広島市内の小・中・高校へも活動の参加を呼びかけ、『広島平和をきづく児童・生徒の会』が組織された。翌年(1956年)には、街中での募金活動が繰り返し行われ、年末までになんと540万円もの寄付金を集めた。後に募金活動の波紋が広がり、全国から三千校以上の学校が参加をするに至り、海外からも寄せられた。1958年5月5日完成。像の真下にある石碑には、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」と刻まれている。

 1955年10月25日死去(享年12)


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