ジャージ・コジンスキー


ジャージ・コジンスキー

ジャージ・ニコデム・コジンスキー(Jerzy Nikodem Kosinski 本名:ヨセク・レヴィンコプフ 1933年6月18日生)
 [ポーランド・小説家]


 ロシア革命の亡命ユダヤ人を両親としてウッチに生まれ、第二次世界大戦中は両親と別れ、片田舎でカトリックのポーランド人を装いホロコーストをのがれる。このときのトラウマのために5年間、彼は口がきけなくなった。

 戦後両親と再会し、身体障害者の学校へ入学。成績はきわめて優秀で、ウッチ大学で歴史と政治学の修士号を取得し、ソ連へ留学する。20代初めの若さでワルシャワのポーランド科学アカデミーで助教授をつとめた。しかし当時の共産主義体制を嫌い、約2年にわたって国外へ出る計画を立て、写真に熱中し国際的な写真コンテストに作品を出品し、写真家として評価されるようになる。

 国外へ出る許可を得ると、捕まれば12年から15年の刑を受けることを覚悟で1957年にポーランドを脱出し、アルゼンチンとブラジルを転々としたあと、その年の12月にほとんど無一文でアメリカに渡った。1958年にフォード財団の奨学金を得てコロンビア大学で社会科学を専攻する。

 1960年にジョゼフ・ノヴァックの名で『同志よ、未来はわがもの』『第三の道はない』という2作のノン・フィクションを発表する。1962年には、ナショナル・スティールの未亡人と結婚し、アメリカの上流社会に近づく。1967年にはグーゲンハイム奨学賞を受け1968年にはコネティカット州のウェスレイヤン大学の高等研究所の所員に任命され、1969年から1970年にかけてプリンストン大学で現代英詩を、イェール大学でドラマティック・プローズと批評を教える。

 作家としてのコジンスキーには謎の部分が多く、ゴーストライターの存在や、コジンスキーとは経歴詐称の作家集団の名にすぎないなどの憶測が絶えなかった。特に半自伝的な作品と考えられた『異端の鳥』については、盗作の疑いがかけられたり、小説の内容が著者自身の体験ではないという批判を受ける。自分の小説が事実に基づいたノン・フィクションであると言ったことはない、とコジンスキーは反論している。彼とCIAとの関係は、死の直前まで取りざたされた。

 1991年、ニューヨーク市マンハッタンの自宅でバルビツールを服用の上、ビニール袋を頭からかぶって窒息死しているところを発見された。遺書があり、自殺と断定された。

 1991年5月3日死去(享年57)


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