中島敦


中島敦

中島敦(なかじまあつし 1909年5月5日生)
 [小説家]


 東京生まれ。父の中島田人は旧制中学校の漢文教員で中国文学に造詣の深い儒学の家で育った。第一高等学校入学後、喘息の発作に悩まされながら小説を書き始め、1927年11月の『校友会雑誌』に「下田の女」を発表する。1930年4月に東京帝国大学文学部国文学科に入学するが、未完作品「北方行」の準備を除けば、大学時代には文学活動への関与はあまりなく、将棋に興じ、またダンスホールや麻雀屋に入り浸る生活を送っていたという。

 東京帝国大学を卒業し、私立横浜高等女学校教員となるが喘息の悪化によって教師を続けることが困難となる。1941年6月に転地療養を兼ねてパラオ南洋庁の官吏(教科書編修書記)に赴任するが、健康を害して翌年帰京。専業作家となり、1942年7月に第一創作集『光と風と夢』、11月に第二創作集『南島譚』を刊行するが、12月4日に持病の気管支喘息悪化のため33歳で亡くなった。

 中国古典から題材を得た作品群が著名であり、特に遺作となった『李陵』の評価は高く、死後に名声をあげた作品の一つとして知られている。また、『山月記』は雑誌『文學界』に掲載されたことで中島敦の名を初めて世間に知らしめた作品であり、新制高等学校の国語教科書に広く掲載され、多くの人々に読みつがれている。

 1942年12月4日死去(享年33)





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